Quantcast
Channel: 伊藤文学のひとりごと
Viewing all 646 articles
Browse latest View live

高須基仁は、奇人、変人のひとりだ!

$
0
0
『サイゾー』という若い人に好評の大判の雑誌がある。『薔薇族』の編集長時代に、2度ほど、女性記者が訪ねてきて取材を受けたことがあった。
 その『サイゾー』に、15年も「高須基仁の全摘・お騒がせ男の“最初で最後の懺悔録”」を連載していて、そのお祝いの会が、銀座の「音楽バア・まじかな」でにぎやかに催された。
 
 高須基仁さんの略歴は、90年代以降、出版プロデューサーとして、ヘアヌード写真集ブームを仕掛けたり、スキャンダルの渦中の人物に告白本を書かせたりするなど、ギョーカイの裏で暗躍。元学生闘士で、現在は多数の媒体で言論活動している。
 
 もう、4,5回「まじかな」でパーティを開いていて、ぼくのことも招いてくれている。耳の遠くなってきたぼくには、声のでかい高須さんの声はよく聞こえて大助かりだ。
 今の世の中で、数少なくなってしまった、奇人、変人のひとりと言える人だろう。
 
『サイゾウ』に書き続けている読み物は、単行本にもなっている。『私は貝になりたい Vol.2・全部摘出』は、展望社刊で、2冊も出版されている。
 とにかくこの本は面白い。言いたい放題だから……。まったく恐いものなしだ。
 
 先日、渋谷道玄坂の「渋谷道頓堀劇場」でしばらくぶりに、ストリップショウを見たことをブログに書いたが、高須さんはこんなことを書いている。
 
「ストリップは、女体礼賛の最大のスポットである。でべそ(前方にはりだした丸い舞台)に乗り出してみると、女の匂いもするし、質感もわかる。
 アメノウズメの神代の時代から、人々はストリップに魅了されてきた。男なら一度は行くべし。ストリップを経験しないで、いきなりネットに行くからおかしなことになるのだ」
 
 先日は、カブリツキには座れなかったが、今度は早めに行ってカブリツキに座ろう。踊り子さんの汗の匂い、女の匂いを充分に楽しみたいものだ。
 ぼくは祖父の伊藤富士雄が、からだをはって廓の苦界から、千人近いお女郎さんを救い出したから、お金で女性を買うということはできなかった。
 父は祖父のことを嫌っていたのだろうか。転勤が多く、学校も何度も変わっただろうし、救世軍の給料など安かったから、貧乏暮らしで、救世軍のことを生涯嫌っていた。
 出版社で仕事をするようになってから、女遊びはたえなかった。性病をうつされたこともあったようだ。
 
 先日の高須さんの会に、吉原のソープランドの一番大きい店だそうだが「金瓶梅」の社長も招かれて、美しい若い女性を4,5人ひきつれて出席していた。
 社長の西村さんを紹介してもらったので、生きているうちに、吉原ってどんなところなのか、一度は訪ねてみたいと思っている。
 入館料は3万円だそうだから、ちょっと行かれそうもないが、行きたいという気持ちだけは持ち続けたいものだ。行ったところで、ぼくのからだは、さびついてしまっているが。
 
 2009年に高須さんは、堀江貴文さんと対談しているが、これがめちゃくちゃに面白い。
 
 高須・女のあそこにはこだわりある?
 
 堀江・くさま××こがイヤです。臭くない人がたまにいるんですよ。まったく臭わない。そういう人とは長続きしますね。僕にサーフィンを教えてくれた人が、サーファーの女の子のま×こはムレるから臭いって。
 
 ふたりとも、とんでもない野郎だ!
 
Unnamed

珍しくかかってきた電話!

$
0
0
 今日、珍しく電話が鳴って、『薔薇族』の読者だった少年愛の人から連絡があった。
 ぼくは忘れてしまっていたが、前にも電話をかけてくれた人のようだ。いまどきは電話をかけるという習慣がない人が多くなっている。メールなんて便利なものがあるからだ。
 
 何年か前に出会った女性から、携帯電話で少年の写真を次から次へと見せてもらったことがある。その中には外人さんの子供の写真もあった。
 ネットを見て取り込んだコレクションだ。ぼくはネットなどのぞいたことがないから、今でも少年や、少女の裸像が見れるのかは知らない。規制がきびしくなってきているから難しいのだろうが、世の中には自分の所持しているお宝をネットで公開して、自慢したい人もいるだろうし、これらは姿を消すことはないのでは……。
 
 電話をかけてくれた男性、彼もネットから取り込んだ少年の写真をコレクションしているようだ。
 子供のわいせつな写真を個人で観賞用に保管するなども「単純所持」として、新たに禁止する改正児童ポルノ法が、国会で成立してしまった。
 所持している人に自主的に廃棄を促すために1年間は罰則を適用しないと定めていた。その1年がたちまちのうちに過ぎて、適用されることになってしまうのを恐れての電話だ。
 
 少年や、少女を強姦してしまうような写真は被害者のことを考えれば、ネット上からもなくさなければならないのは当然のことだ。
 ただ、自然な少年や、少女の裸の写真は別だ。ぼくだって、息子たちが子供の頃は、裸の写真をよく撮ったものだ。
 今、ぼくは時代劇にはまりこんでいるが、劇中に少年たちが水遊びしたり、裸で飛び回っている映像が出てくる。そんなものまで規制するようになったら、行き過ぎもいいところだ。
 
 少年愛者も、少女愛者も、そのようなものを見ることによって、自らの欲望を抑えているに違いないのだ。
 警察だって、法律が改正されたからって、少年や、少女の写真を持っていてもすぐさま、家の中にふみこんで、押収したり逮捕するなんてことはしない。
 しかし、少年や、少女を愛するごく一部の人間が行動をおこしてしまって、少女を車に乗せて誘拐したりする男がいるから、困ったものだ。そんな男を逮捕すれば、自宅を家宅捜査するのは当然のことだ。
 
 ひとにぎりの人間のお陰で、多くの少年愛者、少女愛者が迷惑してしまう。
 少年愛者も、少女愛者も、趣味で少年や、少女を愛しているわけではない。これは持って生まれたものだということをよく認識してもらいたい。
 なにもかも規制して、すべてを見れなくしてしまったら、かえって犯罪者は増えるだろう。
 
 毎日、テレビは殺人事件のドラマを放映している。時代劇でもバッタ、バッタとと人が斬り殺されている。それはドラマの中だけの話だが、まだ、銃を撃ち人を現実に殺し合っている国もある。平和な日本では考えられないことだが、戦争は恐ろしい。
 
 まもなく終戦記念日の8月15日がやってくる。銃もなく竹槍で兵隊たちは戦おうとしていた。原爆をおとされて、やっと戦争をやめたが、まだ、最後まで戦おうとしていた指導者がいたとは。沖縄の人が怒るわけだ。戦場と化したらどんなことになっていたのか。
 
Img_1389

見たもの、感じたものをそのまま!

$
0
0
 戦後まもなくの昭和23年に、父が株式会社第二書房を創業した頃のことだ。百田宗治さんという詩人の本「小学生詩の話」を父が出版したことがあった。
 その頃のぼくは駒大に通っていた。その本の中に「見たもの・感じたものを素直に表現しなさい」と、言うようなことが書かれていた。
 
 ぼくはその言葉を生涯守ってきたように思う。なぜか、ぼくは人さまの書いた本をあまり読まなくなってしまった。
 83歳になった今、考えてみてもその原因は分からないが、要するに頭が悪くて理解力がないので、難しい本は敬遠してしまったということか。
 ろくでなし子さんの書いた本『わたしのからだはワイセツか?!』のような本は、易しい文章で書いてあるので、一気に読むことができたが。
 
 澁澤龍彦さん訳の『O嬢の物語』などは、いまだに読みきっていない。三島由紀夫さんの『禁色』も書棚にねむったままだ。
 そんなぼくでも10数冊の本を出版することができた。1971年に日本で最初の同性愛誌『薔薇族』を創刊し、35年間、出し続け、少しは同性愛の人たちの心の支えにはなったが、『薔薇族』を創刊する数年前に、妹の紀子と共著で『ぼくどうして涙がでるの』を出版し、心臓を病む人たちのためにも、少しは役立つことができた。
 
 ひとりで大声を出して叫んでもどうにもならない。出版の仕事をしてきたから、マスコミの力を借りるということは知っていた。
 マスコミを利用しようなどという下心があったなら、そんなことはすぐに見透かされてしまう。
 50数年前のマスコミの力は偉大だった。とくに朝日新聞の影響力は絶大だった。
 
 昭和37年10月3日の朝日新聞の「読者のひろば」に、ぼくの「妹に激励の手紙」の投稿文が載らなかったら、『ぼくどうして涙がでるの』の本も生まれなかっただろうし、昭和40年(1965年)の芸術祭参加作品の日活映画『ぼくどうして涙がでるの』の映画も製作されることはなかっただろう。
 
 当時の新聞、雑誌のスクラップ帳をめくっていくと、昭和37年12月25日の朝日新聞には「紀子さん、よかったね・心臓手術、無事終わる」の大きな記事が……。
 さあ、それからその記事を読んだ、各マスコミへと波紋は大きくひろがっていく。
 まず「女性自身」そして「少女フレンド」「マーガレット」月刊誌の「美しい女性」そして今度はテレビ、東海テレビが川口知子さん主演で、シャープ月曜劇場に。
 NHKのラジオ・ドラマに。そして日活で映画化。文部省選定・青少年映画審議会推薦・中央児童福祉協議会推薦となり、映画はヒットし、本はベストセラーになった。
 
 日活で映画化されてから、なんと50年になる。それを記念してこの映画をみなさんに見てもらおうと企画した。
 
 8月22日(土)11時30分開場・12時開演
 場所は〒155-0032 世田谷区代沢5-30-10 アール下北沢2F
「art R'eG cafe」(電話03-6413-8588)
 飲み放題・食べ放題・サイン本進呈・会費¥5000 
 下北沢南口下車 徒歩5分。
 
 ぜひ、感動的な映画を見に来てください。『ぼくどうして涙がでるの』は、百田さんの教えのとおり、見たまま、感じたものを書いていて、フィクションはまったくない。
 死に直面してつづった妹の日記は胸はうつ。「読売新聞」が「甘やいだ文章にもかかわらず、ドキュメントには珍しい文学性が全編にキラキラしていて、不思議な感動をよぶ書物である。」と、うれしかった。
 
Img_1390
NHKでラジオドラマ化されたときの十朱幸代さんと妹・紀子とぼく

法律が改正されようとも、少年愛者よ強く生きよう!

$
0
0
 7月15日、恐れていた日がやってきた。
 今朝の東京新聞に、こんな記事が載っている。
「児童ポルノ所持も処罰・きょうから適用対象」の見出しで。
 
「児童買春・ポルノ禁止法の改正により、個人が趣味で児童ポルノの写真や、映像を持つ「単純所持」が十五日から罰則の適用対象となった。昨年七月の改正法の施行から一年間の猶予を設け、警察当局は所有者に児童ポルノの処分を促してきた」
「日本は先進七カ国(G7)の中で、唯一、単純所持が黙認され、「児童ポルノ天国」との批判を受けていたことが改正法のきっかけとなった。」
 
「しばらくぶりにかかってきた電話」というタイトルで『薔薇族』の少年愛者が、この法律が適用されることを心配して電話をかけてきたときのことを書いたが、
「心配することはないよ。君がそうした写真を持っていることを知っている人がいるの?」と聞いたとき、「そんな人はいない」と言っていた。「それなら心配することはないよ」と、ぼくはこたえた。14日のことだ。心配で心配でどうにもならなかったのだろう。何度も電話をかけてきた。
 
 15日から罰則の適用対象となるということで、全国の少年愛者、少女愛者が不安な気持ちになっていることは間違いない。
 新聞記者までが、少年愛者のことをなんにも知らないで、「個人が趣味」でと記事に書くぐらいだから、この法律を改正した議員のみなさんも、各国からの批判をかわすために法律をなんにも知らずに改正してしまったのだろう。
 
 何度も何度も、ぼくに電話をかけてくる少年愛者の人、読者の中には被害妄想にかかりやすい人が多い。
 いくら電話をかけてきた人に「心配するな」と言い聞かせても、すでに被害妄想が強くなってきているから、妄想はエスカレートするばかりだろう。
 
 この1年、写真やDVDの廃棄依頼が急増したと、大阪市の児童ポルノ事件の弁護を多く手がけてきた弁護士さんが語っているというが、なんで廃棄を弁護士さんに頼むのか。
 廃棄した人もいるだろうが、廃棄しない人がほとんどだと、ぼくは思う。写真や、映像を観ることによって、心が休まるのであって、そんなに簡単にすべてを捨ててしまったら、ストレスが溜まってしまうだろう。
 
 ぼくは日本で最初の『少年たち』という写真集を出版したが、これが最初で最後の本だ。この本にたずさわった人の被害妄想に驚いた経験がある。恐ろしい思いをした。
 
「児童ポルノ事件・摘発と被害児童数」が図で描かれているが、2000年頃からみると、2014年には、摘発件数は1800件、被害児童数は、800人にも及んでいる。
 さて、この法律がきびしく改正されたことによって、犯罪は減るだろうか。しばらくは減るかもしれないが、徐々にかえって増えてくるような気がする。
 人間って欲望には弱いものだから。
 各国の批判で、法律は改正されたが、他の6つの先進国は、少年愛者の犯罪が減っているのだろうか。
 人間の欲望を抑えることに、日夜、神に祈りを捧げている、カソリックの牧師さんですら、少年に手を出して問題になっているのだから……。
 
 本当に人間って、欲望の前には弱い。ぼく自身もそうだ。ぼくは毎日、時代劇にはまっているが、どの作品も人間の金銭欲にからんだ話ばかりだ。
 警察も所持しているだけで、逮捕なんかしない。少年愛の人たち、心配しないで強く生きよう!
 
Imgbig_9519d6d189604c1196da2e31b7c9

シモキタは、どんな街になっていくのか!

$
0
0
『シモキタらしさのDNA=「暮らしたい訪れたい」まちの未来をひらく』が刊行された。
 帯には「下北沢の何がそんなに人を惹きつけるのか? このまちに献身したジャーナリストと、まちの良さを守るために立ち上がった建築家が読み解く下北沢のいままでとこれから、その磁力の秘密」とあるが、このキャッチフレーズは何年も前の下北沢のことで、残念ながら今の下北沢には当てはまらない。
 
 献身したというジャーナリストの高橋ユリカさんとは、一昨年、カフエ「つゆ艸」のカウンターにとなりあわせて、おしゃべりしたことがあった。
 偶然にもぼくが住んでいるマンションのとなりの同じ大家さんのマンションに住んでいるということだった。
 
 高橋ユリカさんは、文化出版局を経てフリーのライターとして活躍してこられたが、長年の闘病生活の後、2014年8月に逝去されている。この本の完成を見ずに亡くなられてしまった。
 小林正美さんという建築家と組んで、この本に心血を注いでこられたのだろう。小さなお店の写真まで入れて、すみからすみまで下北沢の街を調べあげている。
 
 先日、毎週必ず観るようにしている、テレビ東京の村上龍さん司会の「カンブリア宮殿」に、東急電鉄の社長の野本弘文さんが登場していた。
 大きな企業のトップの存在は、社長の力量で決まると言っていいだろう。ぼくは東急バスの車庫のある「淡島」という停留所のすぐそばに住んでいる。以前は下北沢の駅の近くに住んでいたので、新宿や、渋谷に出ることが多かったが、今は若林折返所と渋谷を結ぶバスで渋谷へ出ることが多くなっている。渋谷行きのバスは、3分おきくらいで運行されている。小田急バスも経堂から渋谷に行くバスがあるが、10分おきぐらいだ。
 
 渋谷の街は、今や東急天国だ。西武デパートが、「不思議大好き」なんていうキャッチフレーズで元気な時代があり、パルコを何店も出していた頃はよかったが、今はその面影もない。
 野本社長は東急系列の赤字会社を数年で黒字化して、何年か前に東急電鉄の社長になられたようだ。
 
 今、渋谷は大きく変わろうとしている。高層ビルが立ち並び、その屋上に展望台を作り、東京の街が一望できるようにして、渋谷の名所にするようだ。
 野本社長は人口が減っていく東京を見据えている。電車に乗る人が少なくなるのは当然だが、魅力のある街にすれば、月に一回しか出てこない人も、月に何回も訪れるようにすれば、人口が減っても気にならない。
 
 東急沿線に住んでいる人は、こんな偉大な社長がいるのだから幸せだ。小田急電鉄の社長、京王電鉄の社長って、どんな人なのだろう。下北沢の街の将来を考えてくれているのか。まったく顔が見えない。
 下北沢の駅を地下深く潜らしてしまったのは失敗だったと街の古老は言う。電車から街が見えないと、街が発展しないのだと。
 小田急線から、京王線に乗り換えるのは、長いエスカレーターに何度も乗り換えなければならない。若い人はなんでもないだろうが年寄りには苦痛だ。
 
 若者が住みたい街の一位だったこともある下北沢も、今は、10位にも入らない。商店街もチェーン店ばかりになって、個人商店は家賃が高いので、どんどんつぶれている。
 83年も下北沢に住んでいるぼくから見ると、しょぼくれた街になっていくように見える。
 下北沢はこれからどんな街になっていくのか?
 
Unnamed

「伊藤文学のひとりごと」千回達成!

$
0
0
「こんにちは。このたび7月18日(土)更新のブログ記事『法律が改正されようとも、少年愛者よ強く生きよう!』をもちまして、ついに更新千回を達成されました。
 おめでとうございます。とうとうやりましたね! 私としても大変喜ばしく感じております。まずは心ばかりのお祝いまで。」
 の手紙がそえられて、なんとぼくが毎朝、大根おろしの上にのせて食べている、ちりめんじゃこが箱に入れて送られてきたではないか。
 
 閉館した渋谷東急プラザの、地下の食品売り場で買っていた、ちりめんじゃこは、かたからず、やわらかずで食べやすかった。
 閉館してからは仕方がなくスーパーで買っているが、乾燥しすぎていて、かたくておいしくなかった。S君、どこで見つけてきたのか。適当なかたさでおいしかった。
 
 ここ数年、ネットを触れないぼくのためにボランティアでブログを更新してくれているS君。原稿用紙4枚に、ひとつのテーマでまとめて書き、郵便で送ると、土曜日と月曜日に更新してくれる。お礼をしなければならないのはぼくの方なのに、感謝してもしきれない。
 
 11年ほど前に『薔薇族』が廃刊になってしまい、文章を書いても載せる場がなくなってしまった。
 虚脱状態でいたぼくに声をかけてくれたのは、一緒に住んでいる息子の嫁、智恵だった。「原稿用紙に書いてくれれば、ネットで見れるようにしますから」と、言ってくれた。嫁が勤めにでるようになってしまい、できないと言われてしまった。
 
 もう諦めていたら、手を差し伸べてくれたのが、出版関係の業界紙「新文化」に勤めていて、記者をやっていた<S>君。『薔薇族』のことを何度も記事にしてくれた人だ。全身にいれずみをいれている変わった男だ。
 <S>君も事情があって続けられなくなり、次に手助けしてくれたのは、古本屋のM君。なにしろボランティアなのだから、体調が悪くて続けられないと言われては仕方がない。
 
 もう駄目かと、困り果てていたときに、作家の森茉莉さんが、毎日のように通っていたカフエ「邪宗門」で出会ったのが、S君だ。
 近所に住んでいたので、毎土曜日にたずねてきてくれて、動画でぼくのおしゃべりをネットで見られるようにしてくれて好評だった。
 
 S君が親元を離れ、新宿に下宿するようになってから、原稿は郵送している。自分で更新できる人なら、長い文章でなければ毎日でも更新している人は、いくらでもいるだろう。
 自分でネットを触れなくて、原稿用紙4枚にひとつのテーマで書くと、好意的に他人さまが更新してくれる。
 そんなぼくが書き続けて千回達成というのは、快挙と誇ってもいいだろう。それに「伊藤文学のひとりごと」の中から選び出して『やらないか!』という本も出版している。
 この本を出せたのは、ぼくのブログを見てくれているひとりの女性が、全部紙焼きにしてくれたからだ。
 
 何にもの人が、ぼくを手助けしてくれたので、千回を達成できたのだ。それになによりも、ぼくのブログを多くの人が見てくれているから続けられた。最初から見続けてくれている人もいるかもしれない。
 
 ひとり、ひとりに、できるものなら、お会いして話がしてみたい。今ではブログを書き続けることがぼくの生き甲斐になっている。何を書こうかと、いつも考えている。それがボケずにいられる薬のようなものなのだ。
 
Imgbig_fd3171a353944b64a7aa740e6c83
千回達成の陰の力は『薔薇族』

戦争をしたら、こうなるんだということを伝えたい!

$
0
0
 音楽文化研究家の長田暁二君は駒沢大学の誇りといえる人だ。ぼくよりも2歳も年上の85歳だが、同期の友人だ。
 最近、刊行された『戦争が遺した歌』が話題になっている。
 東京新聞の文化欄に、「目背けず謙虚に語れ・戦争が遺した歌、253曲を解説」の見出しで、大きく紹介された。
 
 長田くんは70年前の夏、海軍の志願兵に採用されたが、入隊の日が8月17日で、日本は8月15日に連合軍に無条件降伏していたので死なずにすんだのだ。
 ぼくは敗戦の年が中学1年生、2年生より上は軍需工場で働かせられて、学校にいるのは1年生だけだ。
 朝礼の時に予科練などに入隊する上級生が壇上に上がって挨拶し、1年生の前で別れを告げ、送り出していた。
 
 その頃、世田谷学園には教官室があり、少尉と下士官の二人がいて、校長よりも権力を持っていた。教官室の前を通るときは、恐恐通ったものだ。
 行進の練習ばかりさせられて、軍歌を歌いながら歩く。長田くんは軍歌の全曲を口ずさめるというが、ぼくもかなりの軍歌を歌うことができる。軍部は戦意高揚のために、軍歌を作らせて歌わせた。
 
「戦争はどのような音楽を生み出したのか。その問いに答えてくれる本が、音楽文化研究家の長田暁二さんが刊行した『戦争が遺した歌』だ。
 軍歌はもちろん、戦地の兵士らが好んだ兵隊ソング、銃後の少国民たちが使った愛唱歌など二百五十三曲に詳細な解説を付け、歌詞と楽譜を網羅した。
 自らも軍国教育を受け、全曲を口ずさめるという長田さんは「戦時中がどんな時代で、戦争とはどういうものか、歌を通じてわかってほしい」と語る。」
 
 長田君は岡山の出身なので、駒大の校門の横にあった木造の古びた学生寮に下宿していた。長田君は児童教育部の部長、ぼくは文芸部の部長、文化部の予算が15万ほどあって、いくつかのクラブがそれを取り合う会議が、夜遅くまで開かれる。その席で長田君とは知り合った。
 
 文芸部は1万円を獲得したが、当時の1万円はかなり使い手があった。雑誌を出し、年に2回ほど旅行にも行けた。やすい旅館は1泊2食付きで500円。5,6人で湯河原などにも行った記憶がある。なににお金を使ったかを報告することもない。いい時代だ。
 
 長田君は卒業後、キングレコードに入社しディレクターとして活躍していた。第二書房の製本屋が護国寺のそばにあったので、スクーターを走らせて、護国寺通りにあった長田君の職場にアポなしでよく立ち寄った。
 キングレコードの作詞や、作曲家が談合している部屋で話をしたが、いつも帰る時にレコードを何枚も持たせてくれた。
 その頃のレコードは大きく、デザインもいいので、カフエの壁に飾ったこともあった。
 
 ぼくと妹で出版した『ぼくどうして涙がでるの』が、大ヒットして日活で映画化されることになった。
 主題歌をレコード化してほしいと、長田君に話をもちかけたら、すぐにOKしてくれた。ディレクターってすごい権限を持っている。
 ぼくが作詞して、横井弘さんという有名な作詞家が補作してくれ、鎌田俊与さんが作曲、ヴォーチェ・アンジェリカのコーラスグループが歌ってくれた。
 
 映画のタイトルが映しだされ、そのバックに歌声が流れる。最高にいい気分だった。
 いい友だちをもてて幸せだ。高い本だけどなんとしても購入しなければ……。
 
Imgbig_7075526c46d14221831678dfcbad
コーラスグループに注文をつける長田君
 
Imgbig_782f4f7eb2c24995b33b15ca18fb
キングレコードの吹込所での長田君

やりがいがあり、これほど無言の感謝に包まれた仕事はない!

$
0
0
 今から26年前、1989年の9月号が、『薔薇族』創刊200号記念号だった。何人もの読者からお祝いの投稿があったが、その中で八雲麻生さんの文章は心にしみた。
 
「伊藤文学さん、200号、おめでとう。ずいぶん長いみちのりだったと思います。18年の歳月――ひとりの子供が一人前になるほどの時間。その間、読者のひとりひとりがたどったのと同じように、伊藤さんご自身にも、いろんな山坂があったことでしょう。でも、そのほとんどは『薔薇族』と結びついているのではないかと想像しています。いわば伊藤さんは、その後半生を『薔薇族』編集に捧げられたのです。
 
 第一号からの読者である私には、ごく初めのころ、何度かお会いする機会がありました。『薔薇族』と大きく書かれたライトバンの車に乗せてもらったこともあります。
 その頃、伊藤さんはご自身で本屋さんをまわっていたのだと思います。まだ工事中の、木の香りも新しい新宿の「祭」を見させてもらったこともありました。
 
 いつでも伊藤さんは、少し前かがみに低い声で話され、読者から持ち込まれる面倒な問題にも決して激昂することはないように見えました。
 そんな伊藤さんだからこそ、雑誌の編集以外にさまざまなことの要求される『薔薇族』を、今日まで続けてこられたのだと思います。
 
(中略)
 
『薔薇族』が世間に知られるようになったと言っても、それはある一面だけです。「趣味は人それぞれだからなあ」と、理解されるのでは、本当の理解ではありません。
 男が女を愛するのが「趣味」ではないのと同様に、男が男を愛するのも、人間のもって生まれた「自然」です。そのことを敢えて公言するのでもなく、不自然に隠し続けるのでもなく、素直に生きられるのが本当なのですが、それはなかなか難しい。誰かひとりの人に心を奪われたときから葛藤がはじまります。普通の男が女を愛するように自然には進みません。
 
 でも神様は公平なのだと言えないこともありません。外に向かうことも許されず、うちに深められた思いは、芸術となって花開くことが多いのですから。
 さまざまなジャンルで活躍する薔薇族のいることを、伊藤さんはご存知だと思います。逆に言えば、芸術は、この世のいかなるものにも充たされぬ孤独な心から生まれるので、地位や名誉、富に恵まれながら人一倍さびしがりやだった美空ひばりはその典型だと言えるでしょう。
 
 伊藤さん、先駆者であるあなたには、風当たりが強く、いろいろと人には言えないご苦労もあったと思います。『薔薇族』編集者であるあなたに、政府が褒賞を与えることは、多分ないでしょう。でも『薔薇族』のなかの一頁、伊藤さんのひとことが、ある人のいのちを救っているかも知れません。
 打ちひしがれた絶望の中から、生きる勇気を与えられた人もいるに違いありません。この本のおかげで、しばし孤独を忘れることのできた人も多いでしょう。
 これほどやりがいのある、これほど無言の感謝に包まれた仕事はないと思います。
 
 伊藤さん、どうかいつまでもお元気で、300号、400号と、『薔薇族』の灯をともし続けてください。」
 
 八雲麻生さん、あなたは何篇もの小説を寄せてくれた。どの作品も感動的なものだったが、老人と少年の純愛を描いた作品は、今でも覚えている。助手席に君を乗せて、『薔薇族』を書店や、ポルノショップに納品に行ったなんて、まったく記憶にないけど、いい読者をもったものだ。
 
Unnamed

世田谷区も同性カップルを公認!

$
0
0
 ぼくが83年も住んでいる世田谷区が、渋谷区に続いて、「同性カップル」を公認することを、11月をめどに決めた。
 7月29日の東京新聞夕刊が、一面トップに「同性カップル世田谷も公認=区が公的書類発行へ」の見出しで報じた。
 
 1971年に日本で最初の同性愛誌を創刊させたぼくとしては、感無量といったところだ。これまでには半世紀近い歳月が流れている。
 アメリカは確かすべての州で同性婚が認められている。オバマ大統領の言うことをなんでも受け入れている安倍晋三首相は、今年4月の参院予算委員会で、「家族のあり方にも関する問題だが、憲法で結婚は「両性の合意」となっている。慎重に議論していくべきではないか」と答弁し、同性婚を認めるための法整備に否定的な考えを示している。
 
 アメリカではゲイの人たちが投票しないと選挙に勝てないことを知っているから、ゲイの人たちが望む同性婚を認めないわけにはいかないのだろう。
 かつて親しくしていたアメリカのゲイ雑誌「フロンティア」のオーナーのボブさんから、アメリカの大統領と握手している写真を送ってもらったことさえあった。
 電通のダイバーシティ・ラボが日本の成人約7万人を対象にした調査では、7、6%がLGBTに該当すると答えるそうだから、大変な数になることは間違いない。
 みんなが自覚し団結して行動するならば、政治をも動かす大きな力になるだろうが、そうは簡単にはいかない。
 
 安部首相は、多くの知識人、学者、マスコミの多くが連日のように憲法に違反していると抗議しているにもかかわらず、参院でも安全保障関連法案を強行採決しようとしている。
 オバマさんの言いなりになっている安部首相、同性婚を認める法律を作るぐらいなんでもないのでは。
 
 渋谷区がいち早く、同性カップルを公認するようにしたというが、ゲイのカップルや、レズのカップルが区役所を訪れて、どれほどのカップルが書類を発行してもらったのだろうか。まったく報道されていないから、その数字はわからない。
 ゲイであること、レズであることを公表してしまうことは、ものすごく勇気のいることだ。今まで隠していたことを公表することが果たしてできるのだろうか。
『薔薇族』の雑誌を書店で買うことに、読者がどれだけの苦労をしていたことか。それはそんなに古い話ではない。
 
 最近の話だが、「ラブオイル」を注文するのでさえ、何日の午前中にポストに入れてくださいと言ってくる人がいる。奥さんに知られてはまずいからだろう。
『薔薇族』の読者にはこんな人がいた。
 
「私にとって『薔薇族』は、心の友であり、心の支えでもあり、もっと突きつめて言うならば、恋人でもありました。
『薔薇族』創刊の年に、奇しくも私は管理職に栄進し、そのため単身赴任、家族との別居を余儀なくされました。
 以来、18年間、別居生活といっても、土曜日曜には家に帰り、妻もときどきは私のアパートにくるという生活……。
 その単身生活の18年間、この『薔薇族』が私の恋人でした。夜、この『薔薇族』と過ごす。アパートでの時間、単身赴任の味気なさを世の男性たちは言いますが、私にとっての単身赴任は実に都合がよかったわけです。」
 
 まだまだ、ほとんどのゲイ、レズの人たちは自分の性癖を隠して暮らしているのが現状だ。
 続々と区役所を訪れるカップルがいるようになるのは、いつの日のことだろうか?

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

$
0
0

次回、「文ちゃんと語る会」は、9月26日(土)開催です。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

日時・9月26日(土)午後17時~19時

場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」

〒1550031 世田谷区北沢23 電話0354329068

会費・コーヒー代のみ

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★どんな方でも大歓迎。皆さま、お気軽にお越しください。

高校生も安保法案廃案への声をあげた!

$
0
0
 2015年8月3日(月)の東京新聞朝刊の一面は、珍しい「高校生ら5000人・廃案・安保法案抗議デモ」の見出しが目につく。
 
「安保保障関連法案に講義するデモを首都圏の高校生らのグループ「T-NS SOWL」が2日、東京渋谷で催し、大学生や大人も含め約5千人(主催者発表)が参加した。開襟シャツやセーラー服など制服姿の若者らが「未来を勝手に決めてほしくない」と廃案を訴えた。高校生による大規模な政治デモは異例で、世代を超えて広がる法案への反発を象徴する光景となった。」と報じている。
 
 18歳に選挙権が引き下げられた。受験勉強で忙しい高校生は、政治に無関心と見られていたが、安保法案の成立には、危機感を持たずにはいられなくなってきたのだろう。
 
 8月1日、2日の2夜連続9時からの「TBSテレビ60年企画レッドクロス女たちの赤紙」
 東京新聞のテレビ欄「試写室」によると、戦時下、女性でも赤紙を受けて戦地に赴いた従軍看護婦の物語。
 
「赤紙はまさに血の色。2日で4時間半、朝鮮戦争まで続く悲劇を目を背けることもなく描いた。
 敵味方関係なく救護する赤十字の博愛の精神を貫く希代(主人公の女性)は強い女性だが、戦争に寄って生き方を変えざるを得なかった人々の姿がより胸に突き刺さる。」
 
 戦争というものの悲惨さ、みじめさをこれでもか、これでもかというぐらい描いている。この時代をぼくは生きていて、この目で見てきたから、このドラマの展開はよく理解できるが、今の若者たちはこのドラマを見てくれただろうか。見てくれたとしても理解できないだろう。
 
 ぼくの先妻の妹が、日赤の看護婦学校の卒業だったので、何度か学校を女房とともに訪ねたことがあった。その教育はきびしく、徹底的に博愛精神をたたきこまれていた。
 卒業の時の帯帽式にも参加したが、感動的な儀式だった。
 
 戦前の満州は、そこに暮らす日本人にとっては天国のようなところだった。日本人の農家の次男、三男が開拓団として満州に渡っていった。
 ブラジルなどの開拓民は、荒地をたがやして、農場を広げていったが、満州に渡った開拓団は、すでに農場に満人が開拓されているのを強制的に取り上げ、その満人を小作人として使ったというのだから、戦後、満人にしっぺ返しをくらったのは当然のことだ。
 
 いつの世の中にも、いい人間もいれば、悪い人間もいる。満人たちの面倒を親切にみてきた日本人もいた。戦後、日本人がひどい目にあったが、助けてくれた満人もいた。
 
 戦前ののどかな満州でも日本人の生活ぶりから、一変して戦争にまきこまれていった日本、戦後の朝鮮戦争までを描いた大作だ。
 
 8月15日、敗戦の日が近づいてきている。新聞も、テレビも戦争の話ばかりだ。敗戦の日から70年。早いものだ。
 日本は戦争にまきこまれることもなく、過ごすことができた。しかし、まだ、戦いをくりかえしている国もある。戦争はすべてを破壊してしまう。
 軍備を増強するのはきりがない。馬鹿な話だが、よその国も増強しているのだから、やめるわけにはいかない。
 
 サッカーは北朝鮮に、女子も男子も負けてしまった。北朝鮮軍は今、世界で一番強い軍隊ではなかろうか。今は戦争の仕方が変わってきているが、兵隊同士の白兵戦になったら北朝鮮は断然強いのでは。
 
 高校生も立ち上がった。戦争は絶対にしないことだ。
 
Unnamed

娼婦のような気分にさせられて!

$
0
0
「私はマッサージ師で、35年あまりになります。現在はA市のサウナの専属です。長らく温泉地におり、その時、お客にホモの道を教えられ、お客を治療する時は絶対に、ヘノコ(秋田の方言で、オチンチンのこと)には触るまいと、固く誓っております。
 
 しかし、心とうらはらに手がのびて、気がつくと、お客の道具をしゃぶっている状態で、いつもお客の精液を夢中になって呑んでいる有様です。
 サウナ風呂もやめよう、やめようと思っても、湯上がりのホテっている身体に触れるのが、たまらなくしびれて、われしらず洩らしている始末です。
 
 逞しい肉体にすばらしい男性自身を。なかにはこれみよがしにぶらぶらさせているので、それを見ると全身がぞくぞくして、しびれてくるのです。
 なかには治療を始めると、私のマラに手をのばしてくる人がおり、私も好きだからすぐにお客のやりやすいように、自分の男性を出してやります。
 すばらしい感覚に、思わずわれ知らずにうっとりとなる始末です。
 
 私のマッサージを受けたお客が、「良く手が身体に吸いつくみたいだ」と、言います。ことにマラの根元と、アヌスの中間、俗にいう「蟻の戸渡り」を強く柔らかくやってやると、声を出してよがり涙をながすお客さんがおります。あのふんいきは何とも言われない、すばらしい世界です。
 
 私が小学生の頃、父が農作業の疲れで昼寝をしているとき、なんとなく見ると、ヘノコを立てて眠っているではありませんか。私は子供心に見さかいもなく、ふんどしをはずし、見事な「かさへのこ」に魅せられて、われしらず父のものをしゃぶってしまいました。
 
 今思うと、その頃からホモの傾向があったのかも知れません。目を患って盲学校へ入ったときも、こと寄宿舎に入ると、千ずりかきは、烈しく何日も千ずりされる方でした。中には剛の者もいて、クリームの空びんに精液をためて、悦に入っている者もいました。(秋田県のマラ好き)」
 
 マッサージの仕事をされているすべての方が、このようなことをしているわけではありません。たまたま読者の中のひとりで、マラ好きの人がいたということで、ご理解ください。
 
 いつか関西に住む、お坊さんが、20歳の大学生の頃に、ぼくが経営していた下北沢のカフエ「イカール館」に何度か訪ねてきた話を書いたことがあった。
 ぼくの話を聞きたくて訪ねてきたのかと思ったら、この人、年配の人が好きで、ぼくに好意をもっていて訪ねてきたということを、30年も過ぎてから知った。
 昨年の3月、渋谷の東急ホテルの35階の部屋にぼくを招いてくれた。
 この方、50歳を過ぎた頃で、お坊さんだった。上京してくると、必ずマッサージの先生を部屋に呼んでいた。読者の紹介で、わが家へ、二三度来てもらって、治療を受けたこともあるそうだ。
 
 素晴らしい東京の夜景が見渡せる広い部屋、和食の名店でコースの料理をごちそうになり、足をのばせる風呂に入り、マッサージをしてもらう。
 一度目はなにごともなく終わったが、二度目は前に書いたとおり、オイルマッサージをするというので、全裸に。坊さんもすでに全裸になっている。
 
 82歳での初体験。オチンチンをしゃぶられてしまった。その時、初めて他人さまのオチンチンを握った。それはぼくにとってショックではあったが、いい経験だった。
 人間、不思議なもので、二度目のときは、タクシー代に3万円をもらい、娼婦になったような気分にさせられていた。

胸が燃えるようにあつくなり、涙が溢れ出て!―修学旅行、17歳の純愛物語―

$
0
0
『薔薇族』の投稿欄の「人生薔薇模様」を読んでいると、修学旅行の思い出を書いている投稿がよく目につく。
 学生にとって修学旅行って、いろんな思い出を作ってくれたのだろう。
 
 敗戦記念日が間もなくやってくるが、戦争は個人の楽しみをすべてうばってしまう。ぼくの時代は、修学旅行は、戦争が激しくなってきて行ける状態ではなかった。『薔薇族』にのる若者の投稿を読むと、平和っていいなと思わずにはいられない。「ラブオイル校長」として、ラブオイルを持たせて、男子高校生を送り出したぼくとしては、修学旅行の楽しい思い出をつづった投稿には、目がすぐに寄せられてしまう。
 
 1979年・7月号の「人生薔薇模様」に寄せられた、福岡に住む17歳の高校生の投稿だ。
「ぼくは17歳の県立高校3年になりたてのスリムボーイです。金縁と銀縁のメガネをかけています。
 2年のときに仲良くしていたX君がいたのですが、勇気がなくてキッスもしたことがありません。彼、島に住んでいるので、学校の寮にいるんです。
 
 X君が1年生のとき、先輩から尺八させられたという噂を聞きました。また、彼もその気があったかもしれないということも聞きました。
 
 2年生のときに修学旅行があって、それで彼と仲良くなったんです。彼はぼくの後ろの席(バスの中で)に座りました。彼はぼくにちょっかいを出すんです。耳をかんだり、指をかんだり、腕をなめたりしました。
 他の人には、ぼくたちがふざけていると思ったようです。ぼくもそのつもりでした。でも「もしかしたら彼は……」と、ふっと頭をかすめたのです。しかし、ぼくは勇気がなくて、また、みんなに気取られてはいけないと思って、彼にいやな態度をしてしまったんですが、でも二人は仲良く旅行を楽しみました。
 
(中略)
 
 夜があけてまたバスの中。彼、今度はぼくの横に座ったんです。彼は右手でぼくの左手をもって「握ってよ」と言ったんです。でもみんなの手前もあって、ふざけた様子で、その気があるのかどうかわかりませんでした。結局、二人の間には友達としての関係しかできませんでした。
 
 帰りの夜行列車の中のことです。みんな疲れたせいか、12時には寝静まってしまいました。起きているのはぼくだけ。
 ぼくはいろんな人の寝顔を見てまわりました(もちろん男ばっか)。みんなかわいいんです。思わずキッスしてしまいそうになりました。
 
 X君のところにきたとき、理性が負けて彼の唇にキッスしてしまいました。彼は目をさまさなかったのです。ぼくは胸が燃えるように熱くなり、わけもなく涙があふれでてきたんです。今でもなぜ涙が出たのかわかりません。ぼくはそのまま寝ずに朝をむかえました。
 
 彼にもう一度だけキッスをしようと、彼のところへ行きました。彼もみんなもまだ寝ています。そして……。
 X君、ごめんね。ぼく弱虫なんだ。勇気がないんだ。ごめんね。こんなぼくと短い間だけど付き合ってくれてありがとう。」
 
 若き日の純情物語っていいな。修学旅行っていろんな物語を生んだに違いない。単に観光旅行だけでない。人間同士の「愛」も生まれただろう。
 最近は国内だけでなく、海外にも行くようだ。他国の人との友情が生まれれば、それもいいことだろう。なにはともあれ、平和な戦争のない時代が、いつまでも続いてほしい。
 
Img_2533
イラスト・甲秀樹

長田暁二君は、ぼくの誇りの友達だ!

$
0
0
 こんなにうれしい手紙をもらったことはない。ぼくのブログに「長田暁二君は駒沢大学の誇りだ!」ということを書いた。
 
 長田暁二君が『敗戦70年企画・戦争が遺した歌―歌が明かす戦争の背景』(全音楽譜出版社刊)という本を最近出版された。
「歌」という視点からもう一度「戦争」と「平和」を見つめなおす。というキャッチフレーズで。
 
 2015年7月18日の東京新聞の夕刊に「目背けず謙虚に語れ」と題して、年老いた長田君の写真入りで、インタビュー記事が載った。
 ぼくは知らなかったが、記事にこんなことが書いてある。
 
「70年前の夏、長田は海軍の志願兵に採用された。郷里・岡山の中学に通う三年生で、里帰りした兵隊の歌う「同期の桜」に憧れる軍国少年だった。
 
 新聞もラジオも「日本は負けない」「神風が吹く」と報じ、「戦争へ行け」という世論を作り続けていた。しかし、入隊が8月17日だったため命拾いした。二学期になって学校に戻ると、教師から「戦争に行こうとしたばかがいる」と言われ人間不信に陥った」
 
 長田くんは中学4年を修了して、ぼくと同じように駒沢大学の予科に入学してきた。長田くんの実家はお寺さんだったのか、児童教育部の部長をやっていたぐらいだったから、佛教科かもしれない。
 児童教育部の学生たちは、都内の寺院に派遣されて、子どもたちに曹洞宗の布教活動をしていた。わが家の近くの森巌寺に、ぼくの子供の頃、駒大の児童教育部の学生が日曜学校を開いていたことがある。
 
 長田くんは駒大を卒業後、キングレコードに入社、童謡担当ディレクターを振り出しに、芸術賞1回、日本レコード大賞企画賞3回、童謡賞7回。ヒットした「下町の太陽」も彼の仕事だ。現在は音楽文化研究家、音楽プロデューサーとして活躍し、著書も100冊を越える。
 
 ぼくがスクーターに乗っていた頃は、長田くんがディレクターとして活躍していたので、よく職場を訪ねた。そんな時代に、ぼくの『ぼくどうして涙がでるの』をレコード化してくれた。
 長田君はぼくと違って、パーティはお嫌いなのか、100冊を越す本を出版していても出版記念会などしたことはない。
 
 70歳の古希のお祝いの会をホテルで開いたが、それも友達と二人での会だった。歌手や、作詞家、作曲家の人たちも招かれていたが、駒大関係ではぼくひとりだった。
 
 それから早くも時が流れて、15年は経っている。その間にもぼくは出版を祝う会を銀座のキャバレー「白い
ばら」で3回も開いた。その前にも「赤坂プリンスホテル」で豪華なパーティを開いているが、案内状は出していても、長田君はいつも欠席だ。よっぽどパーティ嫌いなのかもしれない。
 
 そんな長田君から昨日、手紙が送られてきた。長田君はネットなど見ていないのだろうか。800頁もの大作は、原稿用紙に書いたのだろうか。頭のいい長田君だから、ネットなど使いこなしているのかも。
 ぼくのブログを全音楽出版社の編集部の人が読んで長田君に送ったらしい。
 
「拝読して懐かしいやら嬉しいやらで涙が止まりません。有難うございました。持つべきは友達と、しみじみ感じているところです。」
 
『戦争が遺した歌』は、もう再版されたそうだ。「持つべきは友達」と言ってくれた長田君、なんとしても本を買わねば!
 
Img_2539
Img_2540

代沢小学校の「ミドリバンド」のナゾは!

$
0
0
 敗戦後、70年ということで、今年の8月15日の敗戦記念日前後の新聞、テレビは戦争の話ばかりだった。
 NHKスペシャルの映像は、とくになまなましかった。米軍に降伏するということは恥と教えこまれていたから、兵士も民間人も死を選んだ。
 
 サイパン島の崖の上から、抱いていた赤ん坊を先に海の中に投げ落とし、そのあと母親が飛び降りる。子供が海に浮かんでいる映像までが映し出されていた。
 これはアメリカ本土に住むアメリカ人にとっては、太平洋の彼方の話としてしか実感がない。アメリカの軍の指導者は、戦時国債を国民に買ってもらいたいために、カメラマンを多数、戦場に送り込んで、なまなましい映像を国民に見せ、国債を買わせたのだそうだ。そのお金でB29爆撃機や、武器が大量に生産された。
 
 火炎放射器の威力はすさまじい。百数十メートルも炎がとどくというのだから、穴の中に入り込んでいる日本兵は、たちまちのうちに焼き殺されてしまう。
 原爆を広島、長崎に落とされても、まだ戦おうとした戦争指導者、竹槍では米軍が上陸してきたら戦えるわけがない。
 民間人を多数殺してしまったアメリカを憎むべきか、愚かな日本の指導者を憎むべきかはわからない。
 
 ぼくは昭和13年(支那事変が始まった次の年だ)に代沢小学校に入学し、敗戦色が濃くなってきた、昭和19年の4月に世田谷学園に入学している。
 代沢小学校の6年生の担任が浜館菊雄先生だ。あだ名をハマカンと呼んでいた。浜館先生、絵が上手で勉強のできない子の顔を黒板に描いた。この先生の思い出ってそんなことしか覚えていない。
 
 その浜館先生が、戦後、すごい仕事をしていたというのだ。それを調べているのが、きむらけんさん。東大の附属中学の国語教師を定年まで勤められ、退任後は執筆活動を精力的にされている。
 ぼくの父が戦後、「世田谷文学散歩の会」を作り、世田谷に住む文士たちのことを調べあげ「世田谷の文学」という本も出している。
 父の仕事の後を徹底的に調べあげたのが、きむらけんさんだ。
 
 昭和19年8月12日の深夜、代沢小学校の5年以下の子どもたちが、長野のお寺に集団疎開した。
 6年生だけが学校に残り、5年以下の子どもたちを送った記憶があるが、19年となると、ぼくは中学生になっている。18年ではなかったのか。
 
 浜館先生がバンドを作り、子どもたちを指導していたなんて、まったく知らなかった。
 とくに音楽の授業に熱心だったという記憶もないし、浜館先生が指導するバンドの演奏など聞いた記憶はまったくない。
 浜館先生は楽器を疎開先まで送ったのだそうだ。運んだ楽器は、木琴、ハーモニカ、小太鼓、大太鼓、アコーデオン、ラッパなどだ。
 疎開先でも演奏会を開いたりしていたので子どもたちの演奏技量は、なかなかのものだったようだ。
 
 戦争が終わったものの、国民は貧しく食料も不足していた。そんな時代にはまた手先生が指導する「ミドリバンド」が、進駐軍の慰問のために、米軍の施設にバスが迎えに来て、演奏におもむいていた。
 ぼくの家は代沢小のすぐそばなので、若草色の制服で、帽子から革靴まで、すべて米軍が支給していたのだろう。戦後の多くの国民と「ミドリバンド」の子どもたちの姿は、あまりにもかけ離れていた。きむらけんさん、これらのなぞを調べあげて本にするようだ。期待したい。
 

ぼくがすすめる下北沢南口の2軒のお店

$
0
0
 下北沢南口の「art ReG cafe」。広くてゆったりとしていて、おしゃれな店だ。映写幕まで用意されていて、大きなテレビが3台も設置されている、ぜいたくなお店だ。
 開店してから4年になるそうだ。茶沢通りから少し離れた3階建で、外側はガラス張り、地下はライブの会場になっていて、2階がカフエになっている。
 
 カフエといっても飲物だけでなく、お酒もあり、食事もできる。値段も高くはない。ライブに訪れる若者たちは、よく利用しているようだが、2階なので年配者にはちょっと入りにくいかもしれない。
 
 下北沢の南口商店街の一番はずれにあるお店といっていいだろう。ぼくは何度か食事に訪れてすっかり気に入り、ここで映画の上映をすることを決めた。
 会場を借りるとなると、たいがいのお店は2時間が限界だ。ところが映画の映写時間が1時間30分だから、食事の時間を入れると、かなりのオーバーになる。
 
 服部店長はいい人だ。ぼくが要求する条件をみんな承知してくれた。いつも会が終わると別のお店で二次会をやっていたが、夕方の5時まで使ってくれてもいいと言う。
 下北沢のお店に、こんなにのんびりとできる空間はない。落ち着かない店ばかりだから……。
 
 ぜひ、下北沢にくることがあったら「art ReG cafe」に立ち寄ってもらいたいものだ。階段は急だが、奥にエレベーターがあるから、楽にお店に入ることができる。
 
 もう一件のすすめたいお店は、やはり下北沢南口の陶器とコーヒーの店「織部」だ。毎月、月の終わりの土曜日、夕方5時から7時まで、「文ちゃんと語る会」を開いているお店だ。
 店長の奥村君、この人と出会ったことが、ネットを触ったことのないぼくにとって、どれだけ助かったか知れない。
 
 このお店の店長になるまでは、デザインの会社に勤めていたそうなので、チラシを作ってくれたり、年賀状まで作ってくれている。
 わからないことがあると、なんでもネットで調べてくれるので、どれだけ助かっていることか。
 
「織部」は、商店街からはずれた路地のまたその奥にある、めだたないお店だ。開店してからもう2年にはなるだろうか。
 このお店には朝日新聞と日本経済新聞の二紙が置いてある。ぼくのために置いてくれているようなものだ。
 店の半分は織部焼の陶器や、小物がいろいろと並べられている。半分はカフエになっているのだが、ゆったりとした大きな椅子が並んでいる。
 ガラス扉の外は煙草も吸える。最近は犬を連れてくる人、乳母車に子供を乗せてくる若いお母さんが多くなっている。下北沢には乳母車で入っていけるお店がないからだ。
 自社ビルなので家賃がないから、やっていけるのだろうが、こんなにゆったりした空間のカフエは、ここしかない。ぜひ、立ち寄ってもらいたいお店だ。
 
 8月の13日から17日まで、わが家の連中は息子が運転して女房の古里、弥彦へ行ってしまい、ぼくだけのひとり暮らしだ。
 口うるさい女房がいないので、ひとりの生活をしばらくぶりに楽しめた。
 お盆なので仏壇に飾る花を買ってきて、仏壇の中の位牌などを掃除した。元文3年6月5日(1739年。276年前)と天保12年(1941年。174年前)の位牌があった。祖父の父は長野の真田家の用人だったそうだ。元文というと江戸時代の中期の頃か。ご先祖さまを大事にしないと。
 
Img_2938
Img_2939

こんなこと書かないほうがいいのかとブレーキが!

$
0
0
 最近、こんなこと書こうと思っても、やめたほうがいいかなと、自分でブレーキをかけてしまうことが多くなってきた。
 中学1年生の少年と少女が殺されてしまった事件、テレビ報道番組が取り上げていて、犯罪心理学の先生が容疑者の心理を語っているが、的外れのことが多い。
 
 容疑者について、ぼくの意見をのべたいが、やめたほうがいいかと思ってしまう。今の時代、こんなことは書かないほうがいいかと思うことが多くなってきている。
 
「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「ポストの前で待っている君、ゴメンネ」という題で、こんなことが書かれている。1981年10月号だ。
 
「先日、こんなことがあったのです。関西に住む18歳の少年が文通欄にのせた。それに答えて16歳の高1の少年が手紙を出して、それからふたりの交際が始まったのです。
 
 両方とも一人っ子でした。そのうちに熱烈に愛しあうようになったふたりは、とうとう16歳の少年が自由を求めて家出してしまうという結末になってしまったのです。
 
 どう考えたって16歳の少年の方の両親は、たった2つ上とはいっても、年上の子がたぶらかしたとしか思いません。
 
 それから親同士の争いにまで発展してしまう。16歳の少年の親は、自分の子どもがホモだなんてことは信じないから、年上の子が息子を仕込んだとしか思わない。泥仕合が今でも続いている。
 
 なにもぼくは恐がっているわけではなく、お互いに未成年者同士では、どんなに本人同士が愛し合っているからといって、両親にそのことを理解させるのは難しい。
 未成年同士では話がこじれたときに、自分たちだけで問題を解決することは、まず不可能なことなのです。
 
 両親にしてみると、『薔薇族』というようなエロ本があるから、子どもたちが悪くなる、そうとしか思いません。
 かつて発禁処分になったときも、親の投書がきっかけでした。責任を避けるみたいだが未成年同士を紹介してあげることは難しい問題です。すごくぼくの立場が弱いとしか言いようがありません。
 男と男が愛しあうことが悪いことだ。非道徳的なことだという考えをなくさない限りはどうしようもありません。
 
 高校生諸君、なんとかいい方法を見つけて、君ら若い者同士が出会える方法を考えてあげたいと思っています。
 この間も新宿の「祭」に立ち寄ってみたら、夏休みなものだから、相変わらず若い子でムンムンしている。
 高2の子がぼくに話してくれた。「祭」が入っているビル(Qフラットビル。11階建)のエレベーターを上ったり、降りたり、やっと2階の一番奥にあるお店の扉をあけたのだそうです。
 もう今では4回目で、すごくハンサムなお兄さんと友だちになって幸せそうでした。「祭」に入るまでの廊下が長すぎると言う。かなり「祭」の扉をあけるまで、勇気がないと入れなかったようだ。
 
 東京に住んでいる若い子は、度胸さえあれば、こうして友だちを作るチャンスはあるけれど、地方にいる若い子はつらい。
 手紙が届くのを首を長くして待っている子が多かったのです。」
 
 文通欄でしか、相手を見つけることができなかった時代、それこそいろんな物語があった。
 ネットですぐに相手がみつかる今の時代、首を長くしてポストの前で何日も何日も待っていた時代、どっちがよかったのか。ぼくにはわからない。

日活で映画化されて50年も過ぎたとは!

$
0
0
 人間の出会いって不思議なものだ。妹の紀子が心臓手術のために入院していた、東京女子医大病院の心臓病棟、401号室、女性ばかりの6人部屋だ。
 子供の部屋が満員なので、一番扉に近いベッドが空いたところへ、5歳の坊や、田中和雄君がお父さんとお母さんに連れられて入院してきた。
 
 ファロー四微症という生まれつきの心臓奇形で、唇が紫色、手先も血の気がなかった。この坊やが入院してこなければ、ぼくと妹で書いた『ぼくどうして涙が出るの』は生まれなかった。
 
 ぼくと坊やはすぐに仲良しになってしまった。ぼくのいちばん小さい友人というところだ。ぼくは病院に行って退屈している田中君と遊んでくるのが楽しみだった。
「兄さんは私のところにくるの。それとも田中君のところにくるの」と、妹に皮肉まじりに言われてしまった。
 ぼくは坊やとの交流を下手くそな詩に書いた。
 
 
 
 カンニング
 
 3時と7時の検温の時間
 君がいちばん、いやがる時間さ。
 看護婦さんが、体温計を何本も握って入ってくる。
 「ハイッ田中君!」
 「ハイッ松永さん!」
 一本、一本、渡して出て行く。
 君はボタンをはずしてやると、
 わきの下に体温計をはさんで
 神妙な顔をしてすわっている。
 ちゃんと計ると、君はずいぶん熱があったね。
 熱があると
 注射をされるのが怖いものだから、
 もそもそ、からだをゆすって、
 体温計をわきの下から、きまってずらしてしまうんだ。
 看護婦さんも、最初はよくごまかされたね。
 「田中君、今日はオネツがないわね」
 だってさ。
 君は学校に行くようになったら、カンニングの名人になるぜ。
 
 
 
 日活で映画化されたのが、昭和40年。秋の芸術祭参加作品となった。今から50年も前のことだ。十朱幸代さんが初めて主役になった映画、その映画を8月22日(土)下北沢の「artRegCafe」で、50年ぶりに上映する催しを開いた。
 
 多くの友人が集まってくれて、映画はモノクロだけど、涙ぐんでいたお客さんもいたようだ。
 映画のタイトルは、ぼくが書いた文字だ。
 そのバックに、キングレコードのディレクターだった、駒大時代の同期生の長田暁二君がレコード化してくれた、ヴォーチェ・アンジェリカの歌声が流れる。最高にいい気分だった。
 
 
 
 「ぼくどうして涙がでるんだろ」
 最後にそれだけ 言った君
 ああ もう一度病院の
 くもったガラスを拭きながら
 二人でネオンを 眺めたい
 
 
 
 あれから50年も過ぎてしまったとは。しかし、あの本がベストセラーになり、映画化されたこともあって、「全国心臓病の子どもを守る会」が発足し、後学の手術代も保険が適用されるようになった。
 いい仕事を残せて幸せだった。
 
 妹が亡くなって40数年になる。もうじき北沢八幡宮の祭礼がやってくる。お祭りが好きだった妹の紀子。一緒にみこしを見に行くか。

大赤字の「蚤の市」それでも楽しかった!

$
0
0
 2015年8月22〜30日まで、「ポスターハリスギャラリー」で「文ちゃんのアンティーク・コレクション蚤の市」が開かれた。
 昨年の12月初旬にも開き、今回が2回めだ。わが家近くのバス停「淡島」から「東急本店行」のバスが、1時間に2本だけ運行されている。「東急本店前」で降りると、画廊まで3分ほどだ。
 
 このバスのお陰で毎日通いつめてしまった。しかし、平日は何人かしか来てくれない。土日でも20人ほどか。会期中に訪れてくれた人は、6、70人というところ。
 
 わが家にとじこもっていたとしたら、誰とも会わず話もできないが、こういう催し物を開いたから、いろんな人と出会い、話をすることが出来た。それはお金にかえられない体験だった。
 
 ブログとTwitterを見て来てくれた人も何人かいたが、画廊側があまり宣伝してくれなかったのか、画廊のお客さんは少なかった。
 お客さんの中にお金持ちだと思われるような方はいない。一流企業で働いている人、それに正社員の人も。みんなアルバイトの人たちのようだ。
 
 両親と一緒に住み、仕事をしている人はまだ余裕があるが、ひとりで下宿している人は必要な物しか買うことができない。 
 美術学校を出たという人も何人かいたが、4年間勉強してきたことを活かせる職場ではないようだ。
 それに給料が安すぎる。欲しいものがあっても見るだけになってしまう。
 
 大手の出版社に勤めている女性、ルネさんの本を出したことで知り合った方だ。40歳で男の子を出産したそうだ。生まれた時は小さかったそうだが、今は生後7ヶ月、にこにこ笑うかわいい子だ。産休をとっているそうだが、また職場に戻らなければならない。ご主人の収入だけではやっていけないからだ。
 子供を保育所にあずけて職場に戻るというつらい現実。こういう人が絵を買ってくれている。
 
 5、6年前、銀座の画廊でぼくのコレクションを並べたとき、小さな子供を連れて見に来てくれた女性、女の子がふたり、上の子は小学3年生、下の子は小学1年生。大きく成長していた。
 子どもたちに美しいものを見せるようにしているのだそうだ。生活は楽ではないと思うけれど、絵を買ってくれた。
 
 昨年の蚤の市のとき、訪れてくれて、先妻ミカのことを書いた『裸の女房』を買ってくれ
ミカが「スペース・カプセル」で踊っている写真を使ったTシャツも買ってくれた、イギリス人の男性。
 日本語も上手だし、翻訳もされているくらいの方だから本も読める。
『裸の女房』を全部読んでくれたそうで、良かったと褒めてくれた。今度は『ぼくどうして涙がでるの』を買ってくれたので、サインをしてあげた。
 
 今まで出会ったことのないような女性が、最初はゆかた姿で、最終日には豪華な衣装で現れたのにはびっくり。
 この姿で街を歩いているのだから、通りすがりの人が、みんなふりむいて見るそうだ。ご両親が美輪明宏さんのフアンだったそうで彼女の名前を「美輪」と付けたとか。
 手に持っているカバンがすごい。外国製だそうだ。壁にかけてあるパリのファッション画が気に入ったようで購入してくれた。
 
 何をしている方なのか、電話番号も教えてくれたので、おめにかかってじっくりと話を聞きたいものだ。大赤字だったけれど、いろんな人の話を聞けて楽しかった。
 
Img_3121
Img_3122
Img_3123
Img_3124

小さい出版社よ 知恵を絞って生き残れ!

$
0
0
 本の問屋「取次店」の中堅どころ「栗田書店」が倒産してしまったというニュースはショックだった。
 父に聞いた話だが、戦前はトラックのない時代、製本屋は出来上がった本を荷車に積んで、取次店に運び込んでいた。
 
 栗田書店の創業者(?)の社長、元気のいい方だった。ぼくの父はその頃、第一書房という文芸書の出版社に勤めていていたが、取次店に運び込む荷車の製本屋の社員が、他の取次店に先に運び込んで、栗田書店への搬入がおそくなってしまった。
 少しでも早く本を仕入れて、書店に運び込む、それが取次店の使命だった。競争が激しかったのか。
 
 栗田書店の社長、栗田確也さんは、納本がおくれたのを怒って、製本屋の社員を殴りつけたそうだ。そのくらい商売熱心だった。
 その頃、栗田書店は神保町にあり、板橋の方だったかに越した。大晦日に集金に行くと店頭に立って、ひとりひとりに頭を下げていた。
 仕入れの石橋さんという方にも、ずいぶんお世話になった。その頃の社員は大学出などいない。みんな高校を出た社員ばかりだった。
 
 今から26年前の1989年、第二書房が創業40周年、『薔薇族』200号達成記念の祝賀パーティーを新宿の「京王プラザホテル」で開いた。
 卓上に氷の彫刻まで飾られている豪華なパーティーだ。寿司コーナーの屋台まで並んでいる。
 ぼくはパーティーを開くときは必ず、このような華やかな席に招かれないだろう裏方の仕事に励んでいる人たちを招いている。
 
 この日は取次店の返本倉庫で、来る日も、来る日も返本の山を片付けている人たちを招いている。下北沢の書店「鳥羽屋書店」(今はない)の奥さんと娘さんも招いている。『薔薇族』を最初は嫌がって置いてくれなかったのが、最近は置いてくれているからだ。
 
 なんと駒大時代に片想いしていた、阿部弥寿子さん(亡くなってしまった)と駒澤学園の友達の寺西鈴子さんも来てくれている。
 シャンソンを歌ってくれたのが、「クミコ」さん。まだ売れていない時代だ。両親もきてくれている。父は手押し車で。ぼくのいちばんいい時代に両親が亡くなってよかった。家をとられるところなど見せないですんだから。
 
 アルバムを見ていると、すでにこの世にいない人が多い。國學院大學教授の親友、阿部正路君、渋谷「千雅」の社長、小泉さん。帝京大学付属病院の松田重三先生、エイズのことでお世話になった方だ。それにおすぎさん。駒大教授だった渡辺三男先生。
 法人会会長のお名前が思い浮かばない。トーハンの重役、雑誌仕入れの課長時代、『薔薇族』をとってくれた大恩人、名前が思い出せないとは。
 栗田書店の二代目の社長、伊藤さん、温厚な方で、いつもぼくのパーティーにきてくれた。
 
 ネット通販のアマゾンが出現したために、取次店が苦境に立たされてしまった。出版社が直接、取次店を通さないで、本をアマゾンに納めてしまうからだ。
 ネットなんてものがない時代、取次店に納本する卸値は、大手の出版社とそれほどの差はなかった。大手の取次店の売上一位は日販で次がトーハン。今では逆転してしまっている。それは大手の書店に、日販は卸しているからだ。小さい出版社の取次店への卸値はひどいものだ。小さい出版社が泣かされている。
 
 まだまだ、本を読むのが好きな人はいる。小さい出版社も、知恵を絞って生き抜いてほしいものだ。
 
Img_3125
栗田書店の伊藤社長
Viewing all 646 articles
Browse latest View live